遺書の由来

 呉智英の『犬儒派だもの』によると、詩人の松永伍一が『荘厳なる詩祭』(徳間書店)の最終章「上州自殺考」で紹介している遺書らしい。以下、引用。

 群馬県の山村に済む貧しい中年すぎの農婦である彼女は、1955(昭和三十)年2月、煤けた柱の鉤金に麻縄を掛けて縊死した。その冬の初め、凍りついた外便所ですべり、腰を強く打ち、大腿骨骨折となって寝込んだ。村に初めてできたレントゲン科で、医者は全治三ヶ月と告げた。現在の医療の水準なら、そして現在の四十五歳という年齢なら、また金さえかけるなら、充分に回復は可能である。しかし、敗戦後十年にしかならぬ時代の貧しい山村で、孫さえ持つ女が寝込むのは、これから先の人生がないに等しかった。家族の手を煩わすことも、またそれによって労働力を殺ぐようになることも、何よりも医療費の負担が苦痛だったろう。彼女は義務教育さえ満足に受けたことはなく、全くの文盲であった。

 床に就いた彼女は、幼い孫の手を借りて仮名文字を覚えようとした。おそらく家族の誰もが、おばあちゃんは闘病の徒然に文字を覚えようとしていると思ったことだろう。しかし、彼女は遺書を書くために、遺書を書くだけのために文字を覚えようとしたのである。

 孫の使い古した色鉛筆で障子紙のきれはしに、その遺書は書かれていた。遺書に書された日付は決行の十二日前のものであり、彼女の死が衝動的なものではなく、強い意志のもとに選ばれたものであることがわかる。

「四十五ねんのあいだわがまま おゆてすミませんでした
みんなにだいじにしてもらて きのどくになりました
じぶんのあしがすこしも いごかないので
よくよく やに なりました
ゆるして下い
おはかのあおきが やだ
大きくなれば はたけの コサになり
あたまにかぶサて
うるさくてヤたから きてくれ

一人できて 一人でかいる しでのたび
ハナのじよどに まいる うれしさ
ミンサン あとわ よロしくたのみます
二月二日 ニジ」

 彼女の後に残すつつましやかな望みは、墓地の青木を切ってほしいということだけである。それは隣接する畑に木障すなわち日陰を作って農作物の生育を妨げる。彼女の眠る墓の上に木が繁るのも鬱陶しい。だから切ってくれ。

 つつましやかな死後の望みと、感謝と別離の短い言葉と、日頃口ずさんでいた蓮如上人の御文章の一節、ただこれだけのことを書くために、四十五歳の貧しい無学な農婦は、生まれて初めて字を覚えるのである。一ヶ月後と心に決めた自殺の日のために文字を習うのである。

 検索したら、同じ遺書が別のものとして紹介されている。
http://blog.goo.ne.jp/osamu330/e/a1a4e7c17708030d622a8cb205cd4f66

産経抄】 07'06'08

 「四十五ねんのあいだわがまま/お ゆてすミませんでした/みんなにだいじにしてもらて/きのどくになりました/じぶんのあしがすこしも いご/かないので よくよく ヤに/なりました ゆるして下さい…」。

 ▼「反骨の書家」として知られる木村三山の母親センは昭和30年、首をつって64歳で死んだ。18歳で上州の農家に嫁いでから、働きづめの人生だった。ころんで大腿(だいたい)骨を折り、家族の負担になることが耐えられなかったようだ。

 ▼孫の教科書を借りて字を覚え、書き上げた遺書は、三山と弟の詩集『母の碑』に収められた。センは近所に住む寝たきりの老人が、家族から厄介者扱いされていることに、心を痛めていたともいう。

(略)

(2007/06/08 05:04)

 共通点も多いが、自殺した年齢は違う。